私の読書体験

SYNTの井上です。

先日SYNTでの初めての読書会が開催されました。
今回の図書は佐々木中著『切りとれ、あの祈る手を』でした。
本書の第一夜では、「本を読む」ということそのものに対する佐々木中氏の見解が述べられています。

読書そのものがテーマということで、読書会の初回にふさわしかったと思います。

「本を読む」ということは、実はとてつもなく恐ろしい営みであり、時に人を狂わせる力も持っていると佐々木氏は言います。

カフカの小説を読むということに関して、本書の中に以下のような記述があります。

「…書くということ、読むということは無意識に接続するということである。だからカフカの小説を読むということは、半ばカフカの夢を自分の夢として見てしまうということです。」

夢を記録し続けると気が狂ってしまうという都市伝説的な逸話がありますが、他人の夢の中に入ってしまったら、と思うと恐ろしいですね。
しかし、このような少し危なくて没入するような読み方こそが「本を読む」ということなのだと。

このような読み方とは対照的に本を情報として扱う読み方が、本書では批判の対象になっています。
そのような情報を振り回す人々として専門家や批評家といった人々が登場します。
このあたりの記述は、医学生の自分にとってはかなり痛快でした。
本書はもう10年前の作品ですが、まったく現代にも通用しますし、むしろ批評家専門家の情報の振り回す様はいよいよ加速しているとすら感じます。

さて、読書会の最後に、自分の人生において「読んでしまった」としか言えないような経験はあるかという質問をJ.P先生に投げかけられました。
私は少し考えて、無い、と答えました。

しかし、自分の読書体験というものを改めて振り返ってみると、それに準ずるような経験はあったように思います。
あまりに無意識の中に刻み込まれてしまっているが故に、咄嗟に出てこなかったのですが。

それは司馬遼太郎作品との出会いです。
初めて読んだのは小学校の高学年ぐらいのときで、それから小学・中学の間、彼の作品に没頭していた時期がありました。

司馬遼太郎氏は歴史小説家として非常に有名な方です。
彼は、私が歴史というものに神秘性を感じるようになったきっかけとなる人です。

歴史を情報として見てしまえば、歴史小説なんてまったく新しい情報はありません。
作者の夢や世界観が投影されることはあっても、結末はひっくり返りません。先がどうなるのだろうというわくわくは無いわけですね。

佐々木氏の言うところの「読書」であったかは分かりませんが、少なくとも当時の自分は司馬作品を情報としては摂取してはいなかったということは言えます。
先ほどのカフカの記述のように、司馬遼太郎の夢に没入するという感覚も少しばかりあったかもしれません。
そして、このことは当時、ほとんど誰にも言っていませんでした。自分だけで楽しみたい、独占したいという気持ちが強くて、友達との共有なんてまったく考えていなかったのです。
そんなおかしな小中時代を過ごしたせいで、流行りの歌だとかに疎くなってしまったし、コミュ障になってしまった、という点では狂ってしまったというのもあながち間違いではないかもしれません・・・笑

司馬作品に当時の自分がなぜはまってしまったのかはよく分かりません。
ただ、佐々木氏の本書の内容を踏まえると、なんとなく分かるような気がします。それは当時の自分が、田舎のまったく無知で純粋な子供だったいうのが大きいと思います。
佐々木氏は自分の意識の力ですべてを断ち、孤独で無知な状態にあえて自分を置き続けているわけですが、子供は自然とそういう状態になっているなと思いました。

しかし、ちょうど高校に入ったぐらいのときに、司馬作品とも疎遠になっていきました。読書そのものは継続していたのですが、情報の波に毒されて、もはやかつてのような純粋な没入するような読み方はできなくなっていました。

それでも、歴史に対する感覚は、情報の埃にまみれながらも、自分の価値観の中に大きく刻み込まれてしまっています。
歴史を軽薄に扱って単純化するような本に嫌悪感を覚えるぐらいには。

今回の読書会はとても良かったです。私の読書体験を改めて掘り起こす良いきっかけになりました。
実家の本棚で眠っている司馬遼太郎の本を改めて手に取ってみようと思います。

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